昭和44年07月17日  朝の御理解



  御理解 第96節
 「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。」

  今の様にお道の信心が全国言わば津々浦々に、広がっていない以前と致しましては、お道の信心の有り難い事が段々分かり、その教えを又人にも伝えたいと、言った様な願いの元に、布教所教会と言った様なものが次々と出けて参りまして、知らんのございますから皆んながね、それで随分やはり色々な事が言われた様でございますね。「金光教はきつねを奉った神様だ」とか「コンコンさん」だとかと言った様に、まぁあ様々にそれこそ人の口には戸が閉てられぬ、その色んな言わば変な噂まで立ったそうでありますね。
 久留米の教会の場合でも、やはり皆んなが金光様というものがいなかった。「金神さん金神さん」と皆んなが言ったと言う、それでもだんだんおかげを頂いてあの隆々たる御比礼が輝いた。で初めて金光教又は金光様と皆んなが言う様になったんです。ここの場合でもやっぱりそうでした、第一教職を持たない私のところで人が助かるのですから、もう教団内と言うかね、金光様の御信心を頂いておる者でも、「あっちは金光様じゃない」と言う様に言われたし。
 勿論信心のない者なんかは、もうそれこそ聞くも絶えないような、色んなデマがとんだものです、それでこれはもう恐らくはそういう教会を対象として、これ程だっと御理解であろうと思うんですけれども、これはそうだけではないやはり信心さして頂く者の一人一人が、やはり少し熱心に信心さして頂きますよると、色んな取り方をする様になります。「ちったぼうけちござっとじゃなかじゃろか」とかね、それはもう本当に聞くに絶えない様な事を銘々が聞きます。
 いやむしろそれはねむしろそれは一遍誰しもが、信心に熱を入れるなら辿らなければならない、過程ですらあると私は思うです、ですからそこのところで挫折したり、まぁ人からああ言われたんじゃ返って神様の名を汚すからなんて、消極的な考え方で信心を緩めたり、するような人達がやっぱ随分あります、それがあその家庭の中からまでも起きて来る場合がございますからね、「家のお母さんばかりは」とか、「家のお父さんは」とかと言う風に子供達やらその、家内やら主人からですら。
 そういう風な疑惑の目を持って見られる様な所がやっぱり、始めから全部が分かってる訳じゃないのですからね、けれども段々信心をさせて頂く者が、人となりも変って来る、おかげも段々頂いていくから、やはり目をまた見開くようなおかげを頂くからね、「これは自分の思いとは違とったぞ、自分も一つ参ってみようか」と言った様な事でその一家が信心になって参りましたり、親戚中が親戚が信心になって参りましたり、するのがまぁ普通信心を進めていく定石なんですよ。
 ですから親戚の者があぁ言うからこう言うから、とそういうことにですね、あんまりこだわらんですむおかげ。「あんたどんが信心せんけん分からんけれども、今に見よらんの」っち、「どのくらい私がおかげ頂くか、あんたどんが今こそじゃ私は貧乏しとるばってんが、今に見よんなさい」と、そういうことではおかげにならんと思うですね私は、どっちか勝つかあんた信心になる者とない者な、今にちと見よらんな。そういう内容にですねそういう根性があったんではおかげにならんです。
 「ほうら見てみ何時まであんた儲け出しゃ出来んじゃんの」言われたって仕方がないのですね、それこそここにある「先を知っておらんぞ」ということなんですよ、信心のない者は、「まぁ今見よれ」と言った様な私は性根では出来ん、むしろね神の事をとやかく言う、信心さして頂きよる者をとやかく言うということね、口の端にかけるのも神の比礼じゃと信じなければいけんです、神の比礼なんだ、言うならばまた神様のご都合でもあるのです。もうそこに神様の生きた働きが始まっておる印なんだ。
 「人の口には戸は閉てられぬ、先を知ってはおらんぞ」と、「そげな事は言いなさんな」と言う事はいらんて、先を知ってはいない、そりゃ今でも合楽教会の事をまぁ皆んな色々言う人も沢山ございましょう、ございますけれども段々「はぁやっぱり神様じゃなぁ」と、と言うて来た人達もまた随分あるということなんです、恐らくはこれはもう何時までも続くかもしれませんね、悪う言うたり笑うたりする、それこそお釈迦様の事ですら悪う言う者な悪言う、笑う者な笑うのですからね。
 ですからそれにはね、先を知らぬ者の事ですし、口に人の口には戸は閉てられんのですからね、腹を立てるなと、「腹を立てな神が顔を洗うてやる」と、神様が顔を立てて下さる洗うて下さる事を確信して行けれる信心、「今に見よらんの、あんたどんと私共どのくらい違うごとなるや」と言う様な事でですね先を信じておるといったって、そりゃ神様の方がおかげ下さりませんよね、そういう性根では。まるきり喧嘩ごし信心のある者とない者の違いがない、それに言い訳することもいらんのです。
  「あげぇん一生懸命信心しよござって、どうしてあげな貧乏せんならんじゃろうか」。「はぁもう一家を上げてあがしこ信心しござるとに、どうしてあげな不孝な事が続くじゃろうか」と、と言った様な事もございますよね、でそういう時に一々それに対して言い訳がましい事はもうひとっつもいらん、問題は自分の心の中にね、信心のまあ炎とでも言うようなもの、修行の心得を大勢でそれでも自分の心の中にはです、このようにも間違いのない神様の働きを頂いておるという。
 有り難さというものがなからなければならない、だからその有り難いというものが、人に見せる事も出来ない、人に言うてから返って笑われる様な事、「あげな中に有り難かてなんておかしゅうしてならん」って信心のない者は言うでしょう、これを自分だけのもの、それが出来て行く信心。 昨日しかしなぁそのう不思議な事があればあるもの、昨日一昨日でしたかね、高橋さんのところの中村さんって言う職人さんがおりますが、御用で外へスクターで出ておってから女の方を跳ねた。
 まぁおかげを頂いてからまぁ大難を小難におかげを頂いて、けれどもその二十二なっ二十二歳になるそうです女の方、それがですね後ろのところに二針か縫う程に傷を負うてまあ病院に行ってもらった、大変理解のある人で学校の先生だったらしい、でその方の名前を聞いて早速ここにお届けがあったんですよね、まぁおかげを頂いて、まぁ言うならまぁだ嫁入る前の娘さんに、娘さんですからね。顔に傷でも受けたらいくら小さい傷でも大変なことですけれどもね。
 まぁそれが後ろの見えない所であったと言った様な事を、本当におかげを頂いたと言うてお礼を申しておりますが、やはり高橋さんがそのお届けにみえたら、すぐ今帰られたというところに、あの久富組の親子のお婆ちゃんとあちらの息子さんと、二人でお礼に出てみえました「先生広大なおかげを頂いて」とこう言うのであるね、とにかくあのう今アルバイトに来ておる学生さんが、高ぁい随分大変高いやぐらを組んで、その上に登ってなんか仕事をしよった。ところが上にこうやぐらを組んである。
 こう括ってあるのが解けたらしいんですよね、それとからもう「あらあら」と言う間にその倒れたんです、あらもう下は大変その高い所、どれだけって言いよりましたがね、それがその川の崖だもんあのう石垣のこうしてあるとこだもんですからね、もう石垣どん上んどん落っとったら即死しとったじゃろうっち。ところがですね石垣では腕をパッとこうかすった程度で、川の中に落ち込んだなさったそうです。だからもう無傷状態、もう皆んなが「あらあら」と言う間に、その大変な事だったそうですけれども。
 こういうおかげを頂いたという人が、やっぱり中村という人だった。今日私昨日高橋さんお届けに見えてから、こうして見回して頂きよりましたら、ずうっと毎日毎日の一番始めの一番始めんところのお届けが、高橋定利、高橋定利、ずっとなって続いてるんですよね、不思議まぁいつもの事だけれども、神乍らなことであろうけれども不思議な事だなぁ、世の中には不思議な事が一杯あるんだと。そういう私共には分からない不思議な働きの中にそれがあっている。
 そういう例えばここのご信者さん方ん中に、まぁひとつ間違えば命にも関わると言った様な事故が起きておるけれども、その事故もまぁ小難をまたは無難の程度でおかげを頂いて、おるそれが二人とも中村さんであるということ、こんな事もしかしあぁやっぱ何かがある。そんな感じがする。私は昨夜から今朝へかけて、まぁもう本当に不思議だと思うことがあるんです、昨夜あのうなんかお月様の世界にそのう人間が初着陸するなにかの、実況放送があるというもんですから。
 御祈念終わってから見に終わってしもうてから、修行生も誰も勿論、電気は消してしまって誰もおるはずはないし、私はここから御祈念をさして頂いてから、最後の柏手を打たせて頂いたら、後ろで誰かがまたもう実にさえた柏手が二つ聞こえた、「あらっ誰か来とるばいな」と思うて振り向いたら誰れぇもいないんです。いやぁまぁ時々そんな事がありますけれども、これがどこからどのような風にして起きて来るのか私も分からんのですよまぁだ、もう障子は全部締め切ってしまってありますもん。
 今朝から内殿にすまして頂いて、内殿は非常に蒸すんですよね、あそこなんかびょうし、締め切っておりますから、してここで御祈念をさせて頂いておるとこの首筋にですね、もうそれこそ冷んやりした風がずうっと当たるんですよ、そういうことはちょこちょこあります、ここへ座っておってももう汗がですね、もういわゆるあのぶるぶる背中がじっくりなるような時でもですね。どこからか分からんけれども風の中に冷たいものが入っていく様な事があるんです。
 今朝私ここに御結界に付かせて頂いたら、もうそれこそ何の匂いでしょうかね、まぁじゃ香の匂いちゃぁあんな匂いじゃろうかと思うぐらいな、いわゆる香水のなんともかんとも言えん品の良い、ここぷんぷんするんですよ座ったら。もうこやってここで私がここへ座ってから、こうしてこう身つくろいを致しますが、もう本当にもうなんともかんとも言えん有り難さですよね。匂いがあったり音ね、不思議な音がしたり、どこから風が起こる筈もない所から風が起こったり、只々不思議で不思議でたまらんて。
 昨日も私そのう実況放送を見せて頂いておりました時に、皆さんもご覧になったでしょうけれど、東大のなんとかって言う教授にアナウンサーの人が「いよいよこのう自然を、を克服ということですね」って言うてアナウンサーが言っておりましたが「はぁとんでもない」と言う様なことを申しましたですね、「唯今まで手が届かなかったところに手が届くようになったんだと、人間の能力の範囲が少し拡大された迄ですよ」っていうことを申しましたです。
 とてもとてもとんでもない自然を克服するなんてね。そういうことは例えば月の世界に行けれるようになった、そのそういう大変な事ですらがです、そのあの東大の教授が言っておるように、「ただ今まで手が届かなかったところへちょっと手が届くようになっただけだ」と言ってます、「人間の能力が少し拡大されただけだ、まだまだ未知の世界、まだまだ人間ではどうにも出来ない、世界の方がどのくらい多いか分からん」と意味の事を含めて、そう言っておりましたですね。
 ですから例えば私がここでまぁ匂いをきいたとか音を聞いたとか、と言っても不思議じゃないでしょう、神様の天地の親神様の働きの中にはもうそれこそ、私共の想像も付かないそれがある事だけはです、お互いが認めてねそこから私共の能力というものを、拡大していく、ならしていくという姿勢でなからんとそれこそ自然、自然を犯すと言った様なそれこそ暴言だと私は思いますですね。けれどもですねその大変な働き、大変なおかげの中にです、まぁここでは言うておられる「神の比礼じゃ」と仰っておられるね。
 「人神の事を口端にかけるのも神の比礼じゃ」とこう仰る、神のひれいというのは、言わば神の勢いだ、神の働きだということに、もういっちょ勢いを付けたものです、それを言うならば月の世界に行くというその事よりももっと言うたら、素晴らしい働きなのだと、神の勢いである神の比礼というのですから、そうでしょう。それを私共は「誰はどう言うた、彼がこげん言いよる」と言うだけの事でしょうが。そこまでになってくるためにはもう大変な神様の働きがあり、神の比礼がそこにあるのだ。
 神の比礼じゃ。そういう不思議な神様の働きがそこにあっておるんだと、信じさして頂くということ。私共はここに本当にそういう神の事を、悪口を言われるこれ信心さして頂いておりますと、まぁ自分の事を言われる分な良かばってん、あのうこれは普通でもそうですが、親の事を言われたりすると腹が立つもんですよねやっぱり、また自分が信じてやまない例えばあの神様の事やら、自分が信じきっておる先生のことやらを、こう軽く見られたり、悪口を言われたりすると、無性に腹が立つもんですね。
 やはりけどもそういう時にです、はぁここに今神様の比礼が輝いているんだという風に、すぐ頂かしてもらうおかげを頂いとかにゃね。森部のじゃない、稲員の高山さんが、以前にまぁょっとした親子の中に争いがある、「はぁあんたどんが金光様の信心ばっかせんでなになるの、そげなんこついうちから」そのあちらのお母さんがそれこそもう向き直ってその息子さんに言いなさったっち言う訳ですね、「お前あたいが一番痛かとこば言うばいな」っち言うちからその言うちから、もう一番痛いとこを言われる訳。
 息子もまた一番痛いとこを刺す、金光様の事を悪口言うたが一番その早か訳ですよね、それで「お前はあたいが一番痛かとこを言う」と言うてその、まぁ親子喧嘩をしたというようなお届けをつかわった事がありますけれども、確かに私共にはですね一番痛いとこなんですよ、神様の事を言われることはね、ですからその痛いところを触られたり、突つかれたりするですけん、その向こうにいよいよ御神意ご都合がある事を知らなきゃいけませんよ、そこでですいつも絶えず自分の心がです、神様と交流しておるね。
 それはどういうことかと言うと、例えば神様の御心ね自然の心と人間の心というものがです、今申しますように人間の能力と、神様のげん働きと私共の働きとね、当然そこに人間のする事には限界がある、どんなに背伸びをしてみたところで、どんなに頑張ってみたところで、それはたかだしれておる。けれどもね私共がその神様の心を分かり、自然の心を知りその自然の心に逆らわない、それに合流されて行こうとする心、いわゆる神様の心にこちらもならせて頂こうという心。
 そこにはですね、もう既に神様の働きと人間の働きとがひとつになってですね、神様の働きと同んなじ働きを、そこに現わす事が出来るようなおかげを受けられる。私は神様のあのう神様といつも交流しておるということは、そういう意味だと思うですね、神様が水なら私共も水になる、神様は言わば大海のお水のようであって、私共はもうそれこそ一滴の水にもあたらんくらいな、私共ではあろうけれどもです。それが一緒に合流する時に、もう私は私でなくなるんです。
 川の水ならもう川の水であり、大海の水なら大海の水と同んなじなんだ、私は信心の妙境というのはそこなんだ、神様とひとつになるという事、それをまぁここでは神様任せと言う風に申します。私共にも様々な思いはある、様々なこうしたが良かろうと思う事があるけれども、そこを捨てきってしまって、神様の思いに沿わせて頂こうというのである。そういうお互いが信心の稽古をさせて頂いておるのであるから、例え世の人世間の人がどの様に言おうともですね、私のこの心の中は誰も知らっしゃらんというもの。
 神様と私だけのもの、私の心の中にある喜びというものは誰も知られん、それこそ「空海の心の中に咲く花は、弥陀他に知る人ぞなし」ですよね。そういう有り難さというものが心の中にいつもあるからです、人が何と言おうが全然それは問題ではない。先を知ってはいないそういう心があるからこそね、おかげが頂けれる神様が顔を洗うて下さる事を確信できるのです。この道さえ歩いて行きよれば、こういう信心さえ進めて行きよればね。そういう信心も進めて行かずにです。
 神様との合流交流ということも考えずにです、ただ拝みよるだけだた一生懸命信心しよるだけというだけでです。信心のないどんがどげなん事殿言うと、今に見よれとと言う様な事では、何時まで経っても同じ事だと私は思うです。そういうものが心の中に育って行きよるから、人は知らんのであるね先を知ってはいないのだと。この心の中に頂いておるこの信心の喜びが段々育って行く、いよいよ有り難いものになって行く。現在普通で言うならこの様な難儀の中にですら、この喜びがあるのであるから。
 これがひとつ一つおかげを頂いて行く暁には、どのような有り難いものに育っていくであろうかと、自分の心の中にね、言うならわくわくするような喜びが心の中にはある。こういう言わば難儀な中にあっても、この喜びがあるのだからこの喜びがです、ひとつ一つおかげを頂いて行くに従って、いよいよそれが言うなら拡大されて来る喜びなんです。その喜びにおかげの伴なわない筈はないという確信が出けて来る。
  昨日お取り次ぎさせて頂いた中に、もう私は下がっておりましたら参ってきました。以前ここに参ってきており、熱心に参ってきており今信心止めている。その人が言う事なんだ、親戚の誰々さんが一生懸命参られる、「あの人達が本当におかげ頂かっしゃったら、私はま一遍合楽の参ろうと思いよる」っちこう言う、「もうその頃にはねぇ足腰立たんごつその人はなっとろうの」と私は申しました、「あの人はずうと金光様金光様っち言うちからもう、借金の多いかばってんもう、難儀は続いておる。
 あれば見るなら信心なもうされんっち言う。だからあなた達が本当におかげ頂いてるんなら、私もまぁ一遍参ろうっち思いよる」とこう言う。もうそん時には遅かていうこと。ならその人達がおかげを受けておるようなおかげを、そん時自分も頂こうって言ったってもう駄目だていうこと。ですからならその人達はどういう風に言うておるかと言うと、今日ここでありますようにね。今は一生懸命悪口を言いよる訳です、この頃から主人が病気になった、もうそれこそもぅう三日間日というもの御飯が喉に通らじゃった。
 主人もやっぱ悪かった、そしてそのう兄弟に話す事がです、「以前はあん椛目時代に一生懸命参りよる時にゃもう、どげな事なったっちゃびくとんせじゃったばってんからもう、これだけはやっぱ参らんと違うばの」もう私はもう三日三晩、もうほんなこて眠らんごと心配した。そして医者にかからして頂いたら、ほんなもうやっぱ医者じゃなからにゃ出来んばの、すぐ良うなった」っちこう言うたて、今はそういう状態のところを通ってるですその人達がね。
 問題はどのような場合でもびくともせん、そういう心が育って行くということが信心なんですよ、だからそこまでは体験を持ってる訳なんだ、だから実に惜しいといいや惜しいのですけれどもね、自分方親戚の事ずらぁっと言うちからね、信心しよる者と信心しよらん者とばこうやって対象してです、はぁらどんこげんして儲け出しよるとか信心しよらんと方が、「あそこは主人が信心しよるばってん嫁がついちゃこんばってんこうこうだと、嫁が言うごつの方がほんなこつというごたる風な。
 なかなか信心なか者にも一理があるばの」と言った様な事を言いよる。ですからねそういうそりゃ本当にちょっと聞くならば、「ほんなこつの」ち言うごたる事だけれども、けれどね、私はそこんところを神の比礼として聞かせてもらい、先は知ってはおらんぞと私共が確信さしてもらい、ただ自分は自分の心の中に育って行っておる、信心の喜びというものがいよいよ育って行く事に、懸けていったらいいと思うんですね。それこそ高山さんじゃないけれどもですね。
 「他の話しなら良かばってん、おかげ頂ききらん私共が話しをするなら風に言うなら腹ん立つ」ね。「私共が今親戚の中でも信心しよる者が方がおかげ頂ききっとらん」とこう言う訳である、でその人は今信心時々参ってきてからしよるけん、向こうんとが言うとがほんなこつやら、こっち方が言うとがほんなこつやらまだ分からんぐらいなところ、昨日ここへ来てからお話しをしておる人は、「けれども先生一つ不思議な事がある」とこう言うんです、最近またお参りそのお参りしてきたその人が言うことはね。
 月に2回のお休みがあるから2回のお休みに参って来る、ところがですねもうやっぱり6、7回参って来る様になった参って来なさる。そのたんびに本当は先生御結界に付いておられない筈なのに、いつも御結界に付いておられるって、これはもう先生私はもう有り難いだけではなくてもう不思議で堪らんって、言うて昨日その事を言っております、昨日もそうでした。その不思議でそこんところにですね、私が今日言う神様の働きのもうそれこそ無限大のもの、限りがないものに繋がっておる。
 私共では分からないね。どうして柏手の音が響いて来たか、どうしてここにここだけにそういう良い匂いがしたか、どうしてあそこだけに涼しい風が起こったか、同じ事です分からない、ですからそういう働きの中にいつもある、しかもそういう働きの中にです、私共が素直心の一つにて、その中に合流出来れるというおかげね、自然と一緒に共にある神様と共にあるということは、そういう自然の働きといつも共にあっておる、だからそれが難儀の中にあっても。
 そこに実感としてです体験としてです。こういう中にでも神様がこういう風に、お働き下さるということは、有り難いと、いうことになって来る訳なんです。だからそこんところの、私は体験というものが、頂けて来ないいないと、そこには言い訳をしようごとあったり、今に見よらんのと言った様な事にまで、なりかねない訳なんですね。そういうおかげを頂いて行きたい。神様の比礼というのはりゅうりゅうとして繁盛するということだけが御比礼じゃない。
 先日ある教会の先生がここの事を聞いて手紙を寄越しておられるね。そしてこちらの新聞を見せてもろうておられるね、この次の十三日会にいろんなここで、まぁ信心共励があっておるそうですから、その時にその先生と同道で是非一辺お引き寄せを頂きたいから、今からその事をお願いさせて頂くというて、もうそれこそもうこれより以上に、丁寧には書かれるまいっちいうごたる、活字のような字でですね。
 もうそれこそこう一字一字に思いを込め書かれたんだろうと、思われるような手紙が来ておりますね。その中に「合楽の御比礼を聞きました」ということがある。だから合楽の比礼ということは、そういう意味においても、比礼だけれども。今日私が申しますね、人から悪口を言われたり、とやこう言うというのも神の比礼じゃと、教祖がここに言うておられますからね、ここの比礼が比礼として分からして頂くおかげを頂いてこそ、初めて本当の隆々たる御比礼に、繋がって行く事が出来る事ですよね。
     どうぞ。